第六の絶滅

Die Wahrheit ist irgendwo da draußen.

国道5号 札幌市手稲区稲穂3条付近の旧道跡

とにかく職もないわ金もないわ奨学金の猶予上限突破するわ税金払うのにも困るわうつの家族は睡眠薬ODで昏睡するわでコロナ禍とは全く関係なく人生は碌でもなく、ふとした瞬間にあっこの人生は終わりだなという感覚があらわれ、半月ほどうつの家族がODしないようにその曖昧な姿を監視することと部屋で壁と天井を見ることをひたすら繰り返しインターネットする気もないという状態だった。いや、もしかしたら今も(機動警察パトレイバー2 the Movie)。

それはそれとして、最近散歩が面白い(最近アニメが面白い)。

MTBロードバイクで中長距離サイクリングを一時期精力的にやっていたけど、ネット上で見ていたサイクリング趣味のブログの人たちほどにはサイクリング中に写真を取ったり地域の細かい発見をしたりすることができないという問題があった。漕ぐことに必死すぎて。その点で散歩は速度も距離もたかが知れており、草花の実りに思いを寄せたりする心の余裕がある。今日はそんな1時間程度の散歩の中で地理歴史的な発見があったので記事にまとめます。

 

 

フィールドワーク(ただの散歩) 

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これは札幌市手稲区稲穂3条付近の国道5号を歩道橋の上から眺めた様子。空きビル・パチ屋・お宝倉庫・廃ガソスタといかにもなロードサイド風景。インターネットに拠ればマイルドヤンキーによる日本民族白痴化計画の最たるものらしいですが、この辺は不思議と店舗が長続きせずに潰れる傾向が少なくとも30年くらい前から続いているので普通に不便です。

札幌市の歩道橋はとにかくボロくこの歩道橋も例に漏れず錆で穴が開いたりするくらいありえんほど老朽化しているものの、撤去に数千万円かかるからその度にその場しのぎの溶接で補修したりしています(広報誌にそのような行政の見解が載ってた)。大丈夫なのかこれと思いつつ階段の上り下りは健康に良い(?)ので日々の散歩コースにしているわけですが、ある日ここを眺めていてなんとなく引っかかるものがありました。

 

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まあこういう土地割は別に珍しいもんじゃないですが。

 

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それでさっきの場所から国道5号を200mほど東側(札幌側)に進んだところにある道新販売店の土地境界がこうなっています。これなんかちょっと変な感じしません? そこにわざわざ大げさな土留めを斜めに作らんでも良さそう(人の勝手だろ)。

 

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信頼と実績の地理院地図。

真ん中を横断する太い道路が国道5号で、左の赤丸がセイコーマート、右の赤丸が道新販売店。地図上でもしっかり角を切り欠いた形で描写されています。道路好きな人とかは地図見りゃ太くて真っ直ぐな幹線道路に蛇行気味の側道がくっついてたら旧道かなくらいの想像は付くと思いますが、青線が国道5号の旧道です。自分は小学生のときに何かで知識として知っていたんで、旧道の合流部の土地境界線に旧道と似たような角度の切り欠きがある(2つセットで)というところから、このように想像しました。

 

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こういう感じだったんじゃね?

 

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航空写真で見ても家の建ち並び方が微妙に湾曲してるように見えるんだよな~

 

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っぽくない? 赤線に接している緑の部分は少し切り立った崖になっていて、国道沿いの土地は丘?山?をちょっと切り崩して平地にしたような印象を受けます。

 

机上調査(パソコンカタカタ)

というわけで地理院地図で昔の航空写真を見ます。

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これは1974~1978年の航空写真。痕跡あるやんけ。

 

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これは1961~1969年。あるけどあんま変わらんな。

国道5号って結構昔からほぼ現在と同じ線形で整備されてたんだな~って思ったけどよく考えたら北海道は未開発の土地を開拓したわけだから他地域の近代インフラ整備とは違って最初からドン!と道が引けて楽なのかもしれない。

 

全体航空写真ではここまでしか遡れないので単写真を見ていきます。

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1961年5月8日。西側(小樽側)の痕跡が残っていますね。

 

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1948年4月22日、米軍撮影。戦後40年代の航空写真はだいたい米軍撮影です。

 

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1947年9月10日。1年遡るだけですげー緑が増えた気がするけど9月と4月の違いか。

1930年代~1945年の日帝時代の航空写真は見つけられませんでした。大日本帝国さんの航空写真あんまないんですよね。どしどし焼いたのかな? 地理院地図ではこれ以上遡れなかったので線形改良以前の国道5号の姿はわかりません。

ともかく消えた旧道部分が1947年時点で生活道・徒歩道レベルの畦道に見えることを考えると、道路としての供用は改良時か改良後に取り消され宅地として払い下げられたっぽいな~くらいのことはわかりました。つまり土地割が旧道の線形に沿った形になっていて、冒頭の写真のように角が欠けた形の土地が今現在でも見られるのだと思います。地番図見れば一発でわかりそうだけど区役所行けばいいのかな?

www.callcenter.city.sapporo.jp

札幌市役所では閲覧とコピーが可能、札幌市西部市税事務所(西区)では閲覧のみができるようです。こういう一部の行政サービスが区内で完結せず隣の西区まで行かなきゃいけないという、手稲町から札幌市に編入されたのちに西区から手稲区に分区した経緯から来る外様的な不便さが時々あります。

 

そもそも国道5号という一桁国道が北海道にあるのってわりと意外感があるなと思ったので国道5号の歴史も一応調べましょう。Wikipedia丸コピペでレポート提出する大学生。

ja.wikipedia.org

1873年明治6年)に函館 - 札幌間の新道が完成。同年11月5日の太政官布告第364号により同新道は札幌本道(さっぽろほんどう)と定められた。
札幌本道は、北海道開拓に最も重要な路線として日本初の本格的な長距離馬車道として建設されたもので、国道5号の起源にあたる。函館から森まで現・国道5号、森から室蘭までは航路、室蘭から札幌まで現・国道36号のルートをとるものであった。1885年(明治18年)の内務省告示第6号「國道表」で國道42号「東京より札幌県に達する路線」に指定された(函館までは國道6号(現在の国道4号)と重複)。
・1907年(明治40年)5月13日に國道42号のルートが変更され、國道42号は現在の国道5号のルートとなった。(改正後の國道表)
1920年大正9年)施行の旧道路法に基づく路線認定では、旧・國道42号が國道4号「東京市より北海道庁所在地に達する路線」(現在の国道4号・国道5号)となった。

要するに函館から札幌へ至る道路は最初は函館~室蘭~千歳~札幌の南回りルートだったんだけど遠回りだし無駄が多いってことで1907年に函館~小樽~札幌の北回りルートに変更されてそれが現在の国道5号のルートとだいたい同じってことですね。北回りの方が距離短いけど山山山という感じで大変だろうから南回りになったんでしょう。北海道新幹線も計画時に南回りにするか北回りにするかで議論がされてた気がするんでこの辺は不変の問題っぽい。

以上を踏まえると国道5号(の前身の國道42号→國道4号)が1947年の航空写真に見られるようなごんぶと道路に改良されたのは1907年の國道42号の北回りルートへの変更以後だろうと言えるでしょうか。

じゃあ旧道の原形はいつできたんだよって話なんですが、蝦夷地が幕府直轄領だった時代に松前藩に作らせたやつってことになるのかな~松浦武四郎とかが歩いたやつ。

ashiribetsu-museum.com

清田区の郷土資料館のホームページに先述した国道南回りルートの前身である札幌本道の記事がありました。南回りルートは現在の国道36号あたりの前身っぽいですね。

5.道路づくり(札幌越新道)をした人たち
 道路づくりは、石狩詰定役飯田豊之助・雇松浦武四郎の助言によって、場所請負人(蝦夷地・北海道で行われた場所ごとに商売をする人)が区間を決めて行いました。

 〇銭函(ぜにばこ)~星置(ほしおき)間  小樽場所請負人  恵比寿屋 半兵衛
 〇星置(ほしおき)~島松(しままつ)間  石狩場所請負人  阿部屋 傳次郎
 〇島松(しままつ)~千歳(ちとせ) 間  勇払場所請負人  山田屋 文右衛門

江戸時代にも銭函星置間、星置~島松間で道路整備が行われていたことがわかります。ここで言う星置が今の手稲区稲穂~星置あたりっぽい。

ja.wikipedia.org

Wikipediaの札幌本道の記事を見ると

『新道出来形絵図』という札幌本道を描いた49枚組の彩色絵が、現在北海道大学附属図書館に保管されている。

とあるので、とりあえず検索したら北大の北方資料データベースで閲覧できました。49枚組の超大作。しかしこれは南回りルートの札幌本道の絵図なので当地の様子は描かれていません。

www2.lib.hokudai.ac.jp

 

www2.lib.hokudai.ac.jp

明治元年銭函新道という道の絵図もあったけどざっとした感じなんで細かい線形がわからん。

 

ということで次は北海道立図書館の北方資料デジタルライブラリーで検索します。「札幌 新道」とかで出てこないかな。

www3.library.pref.hokkaido.jp

ドンピシャでそれっぽいやつが1件ヒットしました。

題簽「明治六年十一月札幌郡図」、内題「札?郡西部図」で、「飯嶋矩道・船越長善」の名が記されている。札幌市街地を中心に石狩川流域、豊平川流域から周辺の山々までの広範囲を描く精密な図である。有珠新道・千年(千歳)新道・小樽内新道も見え、開村間もない村々も多数記載されている。明治6年(1873)当時の自然のままの河川の様子も詳細に分かり、歴史考証の資料として極めて重要な図である。飯嶋矩道については知るところがないが、船越長善は開拓使雇いの画工で多くの作品を残している。図に貼付されている名刺によれば、本図は開拓判官を勤めた松本十郎から歴史家・河野常吉に贈られた図のようである。本図と同じ図が北海道大学附属図書館に所蔵されている。
<解説:高木 崇世芝 氏>

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「ホシヲキ(星置)」の近くに「サンタルヘツ(三樽別川)」「ガロカワ(軽川)」と現在も残る河川の名前が見られる。と言っても河川は絶えず改良され流路や名前が変わることは普通に考えられるので確実にココ!とは断言できないか。

 

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このカーブ

 

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向きを合わせた地理院地図。軽川は左手側に流れていて、中央になぞったのが旧道。

幕末から明治にかけて存在したであろう旧道がそのまんま当てはまるわけではないだろうけど、当地で似たような線形を描いてはいたんじゃないかな~という気はします。そうだといいね。まあ松浦武四郎とかも歩いてたかもしれない痕跡って想像すると浪漫はあるよねという話で。

 

先に調べてる人いたわ

というようなことを気にしている人間はおれくらいだろうと思いながらも記事をアップロードする前に一応検索してみたらおれより先におれより詳しく調べているプロっぽい方がいらっしゃいました。しかもたった2週間前に。そんなことある?

札幌時空逍遥 手稲区稲穂3条2丁目の小路 国道5号との交差点の隅切り ①

↑地番図も掲載されていて、旧道の線形に沿って土地割がされていることがわかります。予想が当たって嬉しい。

札幌時空逍遥 手稲区稲穂3条2丁目の小路 国道5号との交差点の隅切り ②

札幌時空逍遥 手稲区稲穂3条2丁目 旧道の弯曲

札幌時空逍遥 手稲区稲穂3条2丁目 旧道の弯曲 ②

札幌時空逍遥 手稲区稲穂3条2丁目 旧道の弯曲 ③

う~ん勉強になる。

 

旧国道の風景

自分の散歩とパソコンカタカタが低レベルデースということがわかったので旧国道の旧国道っぽい様子を撮った写真を貼って終わります。

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開拓期の旧国道っぽさっていうのは結構わかりやすく、畑を備えたいかにも地主という感じのお宅が河川そばの立地に建っている様子が何軒か見られます。

 

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稲穂なのに稲積川がある。土地の名前が別の場所に移った後にも河川名がそのまま残ったりするやつかな?

 

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そのものずばり史跡的なやつに指定されているお宅もあります。

  

旧国道を正面に立派な山門を構えた古そうなでかい寺。

shoryuji.com

明治22年

小樽市新栄海雲山龍徳寺四世得髄法宗大和尚(有田法宗)の命により当地に開基一世、活道大禅大和尚(長谷大禅)来り檀信徒の故宮崎宗右門殿の篤信寄附と村有地、一千六百余坪の払い下げを受け境内地として、仮、本堂建立、説教所を創立、宗門の布教活動する。

古いね~

 

田んぼないのに稲穂 

ところで稲穂という地名は日本中どこにでもあると思うんですが、稲穂というわりに水田が全然ないのはなんで?

www.city.sapporo.jp

稲作にとって最も重要なのは水の確保です。手稲では軽川や星置川の水辺から水田が開けてきます。手稲山の山すそを切り崩して造られた、稲穂や星置のあたりの線路下には、手稲山の伏流水(ふくりゅうすい)がわき出ていました。
 「春先に切り割りからわく水は、水温が低く、苗作りが難しかった」 と振り返るのは稲穂に住む吉田恭之助(よしだきょうのすけ)さんです。吉田さんの住宅は現在、国道の山側にありますが、吉田さん一家は昭和21年(1946)まで、線路下の曲長通近くで稲作中心に農業を営んでいました。
 そのあたりの土質は半泥炭地で、田んぼがぬかり、馬を使うことができませんでした。そのため三本ぐわでの田起こしなど、すべて手作業でした。また、そこは低湿地のため、雪解けの時期には毎年のように水害に悩まされたといいます。その土地を離れ、山側へ移転することとなったのは、その水害が大きな理由だったということです。

そもそも土地があんまり稲作に向いてなくてとにかくつらいけどみんな頑張って稲作やったから稲穂という地名になったという話っぽい。北海道開拓の歴史には稲作に向いてない土地で稲作やろうとして挫折したエピソードが各地に残されていて、日本人がいかに米に魂を囚われていたかが窺えます。

私の先祖は道北の方に入植して日本最北の稲作を成功させた開拓の功労者として石碑かなんかが建ってるらしいので、このようなエピソードにはちょっと心を動かされますね。まあその子孫は30代無職男性なんだけど。

 

地理院地図は神

こういうのをやるたびに地理院地図の素晴らしさに感動するよね。

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航空写真を年代順に見ていくだけで田畑の形に土地割がされていて地主が農地を切り売りしていくことで街の区画が形作られていったんだな~とかそういう営みが感覚として理解できて楽しい。日本の未来の暇人のためにも国土地理院には税金をたくさん使ってどしどし航空写真を撮り地図を作成していただきたい。

 

以上、最近散歩が面白い・地理院地図は神という話でした。

前回予告した『2月26日に観るべきアニメ1選』は5月15日までに上げる予定でしたが1ミリも進んでいないので来年の2月26日を目標にします。今期のアニメはスーパーカブメガロボクス2とあしたのジョーが面白いよ。

 

乞食スペース

生活が崩壊しつつあるのでカンパと支援物資は随時歓迎です。

試しにサイドバーにcodocの投げ銭を設置してみました。

・カンパ→ゆうちょ銀行 九〇八店 0361362

・支援物資→ほしいものリスト