小樽樽川三線 小樽内橋について
かつて新川河口東岸に「小樽内(オタルナイ、オタナイ)」という集落が存在したらしい。
現在の「小樽」という地名はここが発祥だという。
1600年頃に松前の人が入植し漁村として栄え、その後、昭和60年頃には人が離れ、集落としての小樽内は消滅した。
その小樽内集落に銭函側から接続する橋梁が今も残っているということで、現在の様子を確認してきた。
場所はこのあたり。
交通手段
実地編
新川通を西進、国道337に突き当たったら、新川東岸の未舗装路に入る。
道幅は二車線分ほどあり、大型車やトラックでも楽に入っていけるが、石ころだらけなので車高の低い車やレーサータイプのバイク、自転車では辛いだろう。
新川河口東岸の砂浜は「オタネ浜」と呼ばれ、ボートクラブのボート置き場があるため、この道は現在でもそれなりに車の往来があるようだ。
荒い道を自転車でゆっくり10分ほど走ると、場違いに立派な橋梁が現れる。
手前側1スパン分の橋桁が存在せず、建設途中で放棄されたようにも見えるが、この部分は木造だったらしい。
現存する鉄橋部分も橋脚の形状や橋桁の錆び具合から、西岸側と東岸側で建設時期が違うのがはっきりわかるし、妙に中途半端という印象を受けた。
ひとまず小樽内橋は置いておいて、新川河口東岸にあったという小樽内集落跡を散策する。
「小樽発祥の地」という石碑が建っているらしい。
小樽内橋が小樽内集落へ接続する目的で建設されたものなのだから、おそらくその延長線上に集落の中心部があったのだろう。
という予想通り、先ほどの写真の手前側に獣道程度の小径があったのだが、思っていたよりも草が繁っており、半袖のサイクルジャージに短パンという出で立ちでは痛そうだったのでやめておいた。
小樽内集落は近いうちに再訪しようと思う。
続いて小樽内橋の西岸側を確認しに行く。
東岸側からは渡橋できない(こともないが自転車を担ぐのがつらい)ので、来た道を引き返し、素直に西岸側からアプローチする。
西岸側は手稲水再生プラザの横から西部スラッジセンター手前までは舗装路なので幾分楽だ。
西部スラッジセンター手前に「バッタ塚橋」という橋があるので、これを渡ってすぐ右手の未舗装の川原道に入る。
相変わらず石ころだらけの上、一車線程度の道幅しかなく、かなり轍も深いので自転車の際は注意した方が良いだろう。
10分ほどでまた小樽内橋が見えてくる。
明らかに西岸側は新しい年代のものだ。
橋台から上がれそうだ。
上がった。
ガードレールは腐食が進んでいるが、橋そのものは現役で使えそうにも見える。
遠く札幌を望む。
振り返り銭函側。
こちら側は恐らく土盛りでアプローチする形だったのだろう。
路盤の跡と踏み跡は存在するので、藪を漕いでいけばおたるドリームビーチに辿り着ける筈だ。
後述するが、この廃道にしか見えない道は「小樽樽川三線」という現役の市道である。
西岸側の橋桁の銘板。1982年6月架橋とのこと。
思っていたよりもずっと新しい。
小樽内集落は昭和60年頃には全戸離村で消滅したという話だったので、それを考えると接続する集落が消滅する間際か、消滅後に架橋されたということになる。おかしな話だ。
今回確認するのを忘れたが、東岸側の銘板には1965年と書いてあるらしい。
一体現役時代はどういう姿だったのだろう。
海側から。
よく見ると東岸側に木造部分の残骸があった。
コンクリート橋脚にレール材のようなもので無造作に固定してあるが、こんな応急処置のような形で供用されていたのだろうか……。
反対側から。
橋桁と橋脚の年代の違いがなければ、建設途中で放棄されたようにも見える。
西岸橋台の海側に真新しい看板が落ちて?いた。
藪ではっきりしないが、ナントカ建設管理部、と書いてある気がする。
現在も小樽市の管理下にある橋梁で、廃橋ではないということだろうか。
ここで現地調査は終わり。
机上編
現物を見て、なんだか妙な橋だという印象を受けたので、家に帰ってからインターネットで何か情報がないか調べてみた。
・未成橋梁にも見えるが実際に供用されていたのか
・何故架橋年代が東岸側と西岸側で20年近くも異なるのか
・現在の行政上の扱い
疑問点は以上3点ほど。
まず、道路といえば国土交通省。
このページの「地方自治体管理橋梁の通行規制状況について」あたりが参考になりそうだ。
通行止め・通行規制橋梁リスト(PDF注意)
あった。
このリストは平成25年4月時点における全国に存在する地方自治体管轄の橋梁のうち、15m以上のもので通行止め、もしくは通行規制が布かれているものを並べたものだ。
これによれば、小樽内橋は、
「小樽市道 小樽樽川3線の橋梁で、現在通行止め」
ということになる。
小樽樽川3線というのは、先ほど橋の上から銭函側を振り返った時に見えた藪のことだ。
あの藪が現役の市道というもどうかという感じだが、小樽内橋は明らかに渡橋が不可能な橋梁だし、行政上はいまだ供用中の現役橋梁で通行止め扱いというのは驚きだ。
まあこのリストに掲載されている通行止め扱いの橋梁を一つ一つ見ていけば同じような状況のものがたくさんありそうな気もするが……。
続いて管轄自治体の小樽市をあたってみる。
平成26年3月公布の大変タイムリーな情報が出て来た。
小樽市橋梁長寿命化修繕計画 概要版(PDF注意)
要するに建設後50年以上経過した古い橋梁がたくさんあるから、早め早めに修繕・維持していく計画を建てましたよ、という話だ。
「今後10年のうちに撤去予定」とのこと。
現役市道と言っても往来は物好きかオフロードライダーくらいしかいないので、今すぐにというわけではないだろうが、小樽内橋を見たいという人は早めに行っておいた方が良いかもしれない。
これで小樽内橋の現在の行政上における扱いが判明した。
問題は往事の小樽内橋についてだが、これに関しては図書館で郷土史料を漁るしかないだろうと思っていた。
ところが流石情報化社会、インターネットは便利だ。
こちらは国土地理院提供のweb地図。
現在表示しているのは1974年~1978年に撮影された小樽内の航空写真である。
この写真でははっきりと新川に小樽内橋が架橋されている。
東岸側が1965年架橋という情報を踏まえると、少なくとも1965年~1978年頃には木橋部分と鉄橋部分が混在した形で供用されていたことになる。
小樽樽川3線の線形や、小樽内集落の様子も大まかに把握できるだろう。
というかこの時点で既に小樽内集落に家屋の類が存在するようには見えない……。
家屋の跡と思わしき地形は見られるので、全戸離村した後のものではないだろうか。
続いて1984年~1987年撮影の航空写真。
明らかに小樽内橋の西岸側が立派になっている。木造部分も健在。
銘板の情報と合わせると、1982年に架け替えを行ったということになるが、何故西岸側の4分の3ほどという中途半端な架け替えを行ったのかは謎だ。
橋脚も新たに作り直しているわけだし、西岸側だけが著しく損壊するような事故・災害が起こったとか、そういう事情があったのだろうか。
それほど大規模な改修をするのであれば、いっそ木造部分もまとめて鉄橋に架け替えればいいだろうと言いたくもなる。
ただこの時点でも小樽内集落に家屋は存在しないように見えるので、そもそも何の為にこの橋を改修する必要があるのかという話になってしまうが……。
ともかく、現役時代の小樽内橋の様子は遠景俯瞰ではあるが確認できた。
登山家の方が運営しているホームページに少し証言があった。
この橋は、元は半分木造で、車で通るとガタガタ音がして怖かった。今は、木造部分が取り壊されている。
やはり半木造半鉄橋の状態で供用されていたのは間違いないようだ。
地理院地図では単写真も提供されているので、こちらも見てみたところ、1940年代の写真がいくつか確認できた。(戦後まもなくだから米軍撮影だ)
時代が時代ということもあり解像度が低いのでなんともいえないが、小樽内橋の存在は確認できる。
小樽内集落にもこの時点では十数軒の家屋がある……ような気がする。
以上の調査の結果
・小樽内橋は少なくとも1947年の時点で(木橋として?)存在した
・1965年に鉄橋に架け替えられ、東岸の陸上部分(あるいは西岸も?)は木造だった
・実体としての小樽内集落は1970年までに全戸離村し消滅?
・1982年に西岸側の4分の3ほどが何らかの理由(老朽化や災害による損壊?)で橋脚ごと架け替えられる
・少なくとも1984~1987年頃には通行可能だった
・利用者の消滅により小樽樽川3線自体を維持する必要がなくなり、通行止め扱いで放置され現在に至る
・残骸が見られないことから木造部分は通行止め措置の際に撤去されたものと思われる
多分に素人の憶測を含むが、概ねこんなところではなかろうか。
国土地理院の航空写真のおかげで思っていたよりも多くの情報を得ることができた。ありがとう国土地理院。
もっと踏み込んで正確なところはやはり郷土史料や小樽市役所に当たるべきだろうから、これは今後の課題としたい。
また、もしこの記事を読まれた方の中に現役時代の小樽内集落や小樽内橋についてご存知の方や写真をお持ちの方がいらっしゃれば、提供していただけると幸いです。
つづき